夏果

日常の思いと創作など

文体を変えると性格も変わるのか?

文体と思考

 

まずはじめに一つの学説を紹介します。

サピア=ウォーフの仮説」という、使う言語によって認識・思考が変わるというという説があります。

それは多く見積もっても「認識・思考に影響を与える」程度だとは思います。 

 

しかし、その説が本当だとして、認識・思考に影響を与えるのは他言語だけでしょうか。

私のブログには「ですます調」と「だである調」が混在しています。

全て私の書いた文章なのですが、文章の内容的にそれ以外の文体で書くことがありえなく感じるのです。

日本語においても文体が変わる事で性格・思考が変わるのかということについて考えていきたいと思います。

 

誰にでもあるであろう文体のゆらぎ

 

昔から文体が定まったことはありません。

村上春樹を読むとニヒルになってしまうし、哲学書を読むと漢字が多くなってしまいます。

しかし、それは書く量が足りていないからだとも思います。

思いついたように10万字ほど書いたとて、直近の文章に左右されてしまいます。

このブログは継続的に1000字程度、人に見せられるような文章を書く練習でもあります。

 

「彩絵」と「日影」

 

その仲で最近私が使用している文体には名前があります。

 

この文章のように「ですます調」の文体を「彩絵」と称しています。

「です」というよりは、「なのです」と語りたい。

「なのです」には目を瞑って祈るような、海の底から願いを込めるようなときに使いたい。すこし過剰でした。

この文体を使うとき女性的な目線をあたえてくれます。

そして、誰に見られなくとも文章を残したいと思うことが多いです。毎回ではありません。

慈愛を伝えたいときに「彩絵」で書いてしまうのでしょうか。

 

「だ・である調」の文体を「日影」と称しています。

日影は日の光で出来た影のこと。日の光自体のことです。

「日影」では私自身のアンビバレントや乖離を語ってしまうのでしょう。

それは孤独を語ることに他なりません。

しかし、それが全てというわけでもありません。

作品の批評や主張は「日影」の文体で書きます。

そして考えるとき、考えている最中のことなどはこの文体です。

 

何によって文体が決まるか

 

同じ語尾でも作者によって小説の文体は様々です。

村上春樹など文章だけで誰が書いたのかわかります。

 

文体を決定するのはなんでしょうか。

ひとつひとつの文字から言葉が紡がれ、文章になります。

文体の所在は文字にまで遡ることができるのですが、ここでは大雑把に三つの要素を紹介します。

それは「言葉選び」「漢字の量」「語尾」だと考えています。

 

まず、「言葉選び」です。

たとえば上の「ひとつひとつの文字から言葉が紡がれ、文章になります。」という文は、「一文字一文字から言葉が成り立ち、文章にまります。」とも表現できます。

「ひとつひとつ」「紡ぐ」という言葉は繊細さを感じさせます。

 

次に、「漢字の量」です。

言葉選びによって漢字の量が決まるので、「言葉選び」にもかかわっています。

一つの要素としたのは熟語表現の選択と漢字を「ひらく」ことに奥深さがあるからです。

熟語表現は避けることも増やすことも出来ます。

例えばこの上の文章は「熟語表現は回避することも多用することも可能です。」と言い換える事ができます。

「漢字をひらく」とは、漢字のある言葉をひらがなで表記することです。

漢字をひらくことで、同音多義語を連想させたり、その言葉の原義とは異なる意味を伝えたり、重要さを表現することができます。

この上の文章は情報の伝達に特化していますね、笑

私のことばを受け取ってくださいね。

 

最後に「語尾」です。

この文章では「だ・である調」「ですます調」と表現しましたが、それは大雑把な分類だと思います。

言語学に知見はないのですが、わたしがすぐ思いつくだけでも、

・だ調

・である調

・です調

・なのです調

・体言止め調

があります。

「体言止め調」は造語なのですが、

 

体言止め。それは美学。風を切るような文体を取り入れたくなる夜もある。

そして、メモ。何かをメモるすときに語尾なんていらない。

 

という風に体言止めを多用する文体もあります。

昔の小説は「である」が多用されていますね。

 

余談ですが最近話し言葉の語尾に「だよー」を多用してしまいます。

私は関西出身なので今までは「やろ」でした。

何か変化があったのでしょうか。周りの人の影響でしょうか。かわいこぶっているのでしょうか。

 

知ってる人への正当化

 

この文章は、同じブログ内に別の文体があることの奇妙さをできるだけ取り払うための文章でしょう。

私の方から知人にブログを見せたとして、文体が違う理由を説明するのが面倒だというのも大きいです。

 

「彩絵」は消えるかもしれないし、それ以外の文体が現れることもあるでしょう。

抱えている命題が、「愛」「孤独」とは違うものになれば姿をかえるのでしょうか。

 

五つの文章を書いて、もうブログのプロローグは終わったような気がします。

もっと私のこと以外のことも書いていきたいなと思っています。思っているだけ。

よければこれからも私の文章を読んでください。

 

最後に、優しい言葉を無理して使ってみるのもよいと思います。

文体に虚構も実態もないというのは、自由が広がっているということです。