夏果

日常の思いと創作など

多面的なままでもいいのかもしれない

祖父母の家に来た。

おさない頃から慣れ親しんだ田舎だ。

 

 

孤独を全く感じない。私は私という境地に達したことを話す。

今回の文章は自分語りが過ぎるので、読まなくても良い。

 

多面的なのが私

 

私が孤独を感じるのは私の好きなものがわかりにくいから、理解してもらえないことに起因する。

これまでの文章でも、私のアンビバレンスについて語ってきた。

 

私は特に理解されるのに時間を要するのだろう。

薄く広くの人間関係では理解したと言えるほど関わる事ができないのだ。

だから高校の頃から「狭く深くの人間関係」の方が私に合っていると信じて、そうなるように行動してきた。

最近は友達が増えすぎたのかなと思う。

だからといって昔みたいに友達を減らそうとはしないけど。

 

この場所に来て、童心を思い出した。

人間より自然が好きだった。

小学生の頃は自然破壊が嫌で、それに付随して人間を嫌うこともあった。

 

今では人が好きと言っているが本当にそうなのだろうか。

人の何が好きなんだろうか。

面白い人が好き。仲の良い友達が好き。

 

でも、別に無理して人間と言わなくてもいいのではないか?

苦手な人もいる。どんな人でも私の想像を超える行動をしたら面白いけど、そういう観測は疲れる。

 

それでも人間が好きだと言い続けてきたのは、人間の優しさを信じていたからかもしれない。

今でも人はみんなそれなりに優しいと思っている。人に危害を加えるために生きる人間も存在するが、それはエラー個体にすぎない。

 

関わる人々が現実で織りなす物語が面白かった。

今もそれなりに面白いけど、その物語が自分と離れると退屈でしかない。

組織の上の方で起こっている馬鹿げた不条理を耳にしても、良い気分になるわけない。

 

自分も参加して、自分の周りで、良い物語を紡ぐ為にも、もっと「深く狭く」の人間関係にしようと思った。

 

そして、相反するものを両方好きな私は、それが私だ。

他人にわかりやすくパッケージ化して名前をつけなくとも、人は矛盾を孕んでいるし、説明できない揺らぎがあるものだ。

 

語りきれない私を語りきるのを諦めることで私が生まれるのだろう。

この文を読んでいるあなた、私をの余情を理解しろ。

 

「余情」という言葉は人生において重要ワードなので覚えた方が良い。

 

それでも幸せを願う

 

人間が好きの根源には世界が好きというのがあると思う。

人間も、虫も、花も、幸せであってほしいと本心から願ってる。

でも小学生の時からわかってた。

 

蝿の幸せを願うことは蜘蛛の幸せにとって不都合。

肉牛の幸せを願うことは人間の幸せにとって不都合。

Aさんの幸せを願う事はAさんを嫌いなBさんにとって不都合。

 

不都合という言葉は適切ではないが、わかってくれ。

一旦、宮沢賢治の『よだかの星』を読んでほしい。これは必読図書だ。

 

銀河鉄道の夜』でも出てくる「ほんとうのしあわせ」って何なのだろう。

相反する二つを同時に好きになれるし、幸福を願うことはできる。でもそれは本当の愛なの?本当の幸せを願っているの?

 

私は自分のことを綺麗事を述べがちなのも迷える博愛主義者なのも自認しているし、現実を見ている人から嫌われるんだろうなとも思ってる。

それならそれでいいんだ。

多くの人間が好きでも、私が人間として正しい関わり方を多くの人とするのは無理だ。これは腐っているわけではない。

 

今回は私を確立するほどの大きな進歩があった。

 

・私は言葉で説明できるほど単純じゃない。だからこそ理解しあうのに時間が必要。

・理解し合う為に、好きな人とだけいる。面白くない人とあまり深く関わらない。理解の期待をせずにそれなりに優しくする。

・みんなが幸せであればいいのにと思うことをやめるのは無理だ。みんなの幸せを願いつつも、より私が好きな方に得をしてほしい。

 

嫌な言い方をするなら「差別」になるのだろうか。良い言い方をするなら「恩顧」だろう。

いま結論に辿り着いたわけではない。何度もたどり着いて、浅はかな博愛が発露して揺らいでの繰り返し。

またそうなっても、それならそれでいい。

またこの場所に来ればいいだけ

 

私を確立するために言葉で余情を切り捨てようとしていたことだけ間違っていた。つまり夏果の今までの文章は、「夏草や兵どもが夢の跡」である。

 

 

私は折原臨也とは全然ちがう

 

デュラララ!!』の折原臨也がなぜ作中で嫌われ者なのか。

私は被害を被るからだと思っていた。彼は逆境・窮地に直面する人間の行動・成長を見たいのだ。つまり、人を窮地に陥れる。

ただ、彼がやっていることは背中を押すだけだ。彼だけを憎むのは違うと思っていた。ましてや、害がないなら嫌う理由がないとすら思っていた。

しかし、それは私がそれなりに彼の考えに近いところがあるからだろう。

 

折原臨也が嫌われる理由について優秀な後輩と話していると、「人としての関わりをしていないから」という答えを提示してくれた。

とても良い答えだ。

折原臨也は人間を愛しているが、個体を愛しているわけではない。

そして、仲間がいても信頼していない。

私も人を信じるということが何かわかっていないので、分かる部分がある。

 

しかし、私は彼とは違う。

人間の選択は好きだが、私は争いを好まない。

私は個体が好きだし、人間に対して熱愛しているわけではない。

誰かを信頼したいし、理解しあいたい。

私は彼ほど扇動し、状況をコントロールする力がない。

 

彼が「どうして人間は僕を愛さないのだろう」というのは、人間は概念でしかないからだ。そして、個々の人間も相互的な人間の関わりを望んでいるらしい。

 

自然に生きても私は私。

そして今回は外部的なトピックがなかった為、文章の色味が薄い。

文章書くたびに知り合いに見せたくなくなる。

「理解して」と言うことは容易ではない。

 

トピックメモ

 

信じるって何

博愛と偏愛

恋できない、信頼できない、人間不信?、自己防衛

私と時代の個人主義学生運動の熱と空虚さ。

マジックも哲学も孤独。共通の熱。

人間を個体として尊敬するってむずすぎ