夏果

日常の思いと創作など

「俺、弱いやつ嫌いなんだよね」

はじめに

 

「俺、弱いやつ嫌いなんだよね」

アニメや漫画で聞いたことあるセリフだ。

そして大概そのセリフを吐くキャラは敵キャラで、主人公の強さを知ることになる。

 

強さ、弱さは相対的なものであることが多い。

弱いやつが嫌いな敵キャラは主人公に負け、主人公の強さを認めることになる。

 

「俺、弱いやつ嫌いなんだよね」

このセリフを吐く時、主人公もしくは主人公の仲間を軽くひねるように圧倒する。

それによって読者・視聴者にフラストレーションを与え、主人公の勝利のカタルシスを大きくする。

 

創作の中でのセリフについてこれまで語ってきた。

しかし、「弱いやつ嫌い」というのは人間の本質的なものではないだろうか。

私は声を大にして言う。

弱いやつが嫌いだ。

 

弱いことによるデメリット

 

「弱い」といっても、現実で勝負する機会なんてあまりないので、

ここでいう弱さとは、精神的弱さ、もしくは能力不足、向上心のなさなどの複合的な「弱さ」である。

 

他人と仕事などをするときに能力不足やミスを起こすと、他人にも害をあたえる。

普通のコミュニケーションでも、言葉選びをミスすると、他人を不快にする。

他人が関係せずとも、自分の実力がなく、目標を達成できなければ辛酸をなめることになる。

弱さは、最適から遠ざかる要素でしかない。

 

全ての人が弱い

 

何をもって「弱い」といえるのか。

弱い・強いというのは相対的に測ることが多い。

 

私が言う「弱いやつが嫌い」というのは、「私より弱いやつが嫌い」というわけではない。

私は私自身も弱いから嫌いだ。

私は絶対評価的に「弱さ」を嫌っている。

そうなればほとんどの人が弱くて嫌いということになる。

 

ただ、前述したように、「弱さ」とは複合的な概念である。

ここで、私が嫌いな弱いやつを明言する。

 

ミスを改善をしないやつ。

ミスの補償をしないやつ。

能力不足を改善しないやつ。

悪意無く他人に害を与えているやつ。

 

これらが私は嫌いだ。

もちろん人は「弱っている時」というのがあるので長期的にみてそうである場合だ。

人は誰しもがミスをする。

私はミスは起こった時点で過去のものであり、そのミス自体に対してはあまり何も思わない。

 

ただ、そのミスに対して補償(リカバー、アフターケア)と改善(ミスの分析、ネクストアクション)をする必要がある。
補償のみをすればよいと思う人や改善のみをすればよいと思う人がいるが私は厳しめにどちらも必要だと主張したい。

 

能力不足を改善しないやつというのも、ミスについてと似ている。

こちらはゆっくりとでもよいので、改善していってほしい。

 

悪意無く他人に害を与えているやつというのは、周辺の人間関係が変われば害を与えないということもるだろう。ただ、悪意無い時点で改善は不可能である。

生きる場所を変えよう。

ただ、それは悪と断定はしない。

噛み合わなかっただけだろう。

 

以上のように、複合的に弱さが相互作用している弱さを許容することはできない。

しかし、現実的に長いスパンでの幸福のためにそれらを嫌っているだけでもある。

 

自分について

 

もう他人の弱さに影響されないほど強くなろう。

どれだけ改善しようとしていても、自分の弱さだけは許容するのがむずかしい。

それは自分の能力不足は自分を不幸に導くからだ。

 

他人に害を与える「弱さ」自体が嫌い。

私を最適から遠ざける他人と自分の「弱さ」が嫌い。

弱いやつが嫌い。

 

2023年10月4日

 

2023年10月3日 秋

あっという間に今日が終わるように感じました。

秋の一日は短いですね。

「一日千秋」の千秋は千年を意味する言葉ですが、昔からあまりピンと来ていません。

秋の一日に限らず、秋という季節なんてすぐ去っていくものです。

千回秋が去ろうとも、それが長い時間ということになるようには思えません。

 

忙しい日でも時間を作ってやるべきことをこなさなければタスクは減っていきませんね。今日は22時から24時までの2時間は有意義に使いたいなと思います。

それでもダラダラしてしまうのが世の常です。

 

最近、眼精疲労に悩まされています。

目が疲れているなと感じることが多く、世界が全体的に眩しいのです。

仕事の関係上、パソコンやスマホを一日のほとんど見ているものですから、眼精疲労を直すには覚悟がいるなと感じています。

既に良い目薬やホットアイマスクを寝るときにしていますが、全然足りません。

 

このブログ以外にも私はノートやPCのメモに大量に文章を書いています。

詩的なものや荒唐無稽なことなどさまざまです。

 

中学や高校では「ポエマー」という言葉はバカするような言葉で使われることが多かったのを覚えています。

そして、実際に心境を吐露すると文章は稚拙になるものです。

私の文章はまだ稚拙ですが、ポエマーと呼ばれることを望んでいる自分を発見しました。

それは、「ポエマーと呼ぶ人々にはポエムが観測されている」「ポエマーの言葉に含まれる悪意で関わる人を選別できる」からです。

私の文章は他人に害を与えるものではありませんから、「無垢に」ポエマーと呼んでくれればよいのです。

 

今日は調子が悪く、目が痛いので、この辺にしておきます。

忙しい日々の中でも、救われる時間を創出しましょう。 

 

写実的あるいはナンセンスなものを伝えるための文章

10月は夏ではありません。

私が昨日決めたことです。

 

今日は日差しが強く、世界をオレンジ色につつんでいました。

その色温度は明らかに秋のものでしたが、太陽は夏のように私を照らしました。

おちおち日傘をさしていられないほど風も強くて参りました。

 

昨日は作文がスランプということを書きました。

しかし、文学なんてナンセンスでも良いのです。

写実的、あるいは虚無的に心象もしくは現実を書けば良いだけなのかもしれません。

丁寧に言葉を選びさえすれば、他の人にも私の見えてる世界を垣間見ることができるのではないでしょうか。

私が写真に求めていることと同じです。

 

完全に理解し合うということは不可能な世界で、互いが美しいと思ったものを共有する。

そのささやかな理解への試みのみが孤独を埋める。

 

それはアートというにはあまりにコミュニケーションで、コミュニケーションと呼ぶにはあまりにアートです。

名前なんてなんでも良いでしょう。

 

このブログでもこれまでもしてきたことでしたね。

このブログでの文章を分類するに、

「自己の特異性の理解」

「内省」

「わからないものに対する思考」

「写実的、ナンセンスな文章、思考」

「物語」

であると思います。

 

おそらく、この文章の冒頭のように、写実的な日記のような、あるいは詩のようなものは、他者にみせるためのブログとして良いとされるものでしょう。

そして、「自己の特異性の理解」「内省」はほどほどにするべきなのでしょうか。この文章も今は「内省」にあたるので、改善は不可能でしょうね。

「わからないものに対する思考」はそういう系統のブログがあるように、また他人との会話に対して有用であり、ラジオなどもこのような命題を取り扱うことが多いでしょう。これは増やしていきたいし、音声メディアで発信してもよいかもしれません。

最後に「物語」についてです。これはブログを分けるべきな気がします。またnoteのように、よみやすさを重視するべきかも。

 

年内は、いや自分の「夏果」が終わるまでは、文章を書く為のリハビリとしてこのブログで書こうと思います。

そして、夏はが終われば、「日記」と「物語」と「わからないものに対する思考」は区別して、他人に共有しようと思います。

 

今回も「内省」「わからないものに対する思考」が多くなってしまいました。

今回の文章なんて最初の5行を読んでくれたら十分なのです。

 

秋が来るとさびしくなります。

だから文章もあなたのレスポンスを求めるような文章に変化してゆきそうな気がします。

毎回、他人に「今日もブログ書いたからみて!」と無邪気に言えるようになりたい。

そのためにも文章のリハビリをする。

 

人は誰だって構って欲しい、そうでしょう?

秋風に身を丸くしながら共感してください。

 

2023/10/02

 

 

作文スランプ

私の頭の中は散らかった研究室のようです。

様々な思考が散らばっていてまとまらない。

だからこそ、キーボードを前にすれば言葉は溢れてきました。

これまでも、書く内容を決めずに書いてきました。

しかし、最近は頭の中でいくつかのテーゼがまとまりました。

 

それは私の根幹の命題でした。

 

救いとは何か。許しとは何か。内なる神と外にある神。絶対は絶対に存在しない。そして、愛。

 

この一連の命題群を文章にまとめようとすると、いつもの適当な言葉選びはしていられません。

丁寧に推敲を繰り返して、書きたいと思います。

そう思えばそう思うほど、何も書けなくなってしまいます。

単にハードルの問題でしょう。

 

しかし、その命題群以外のことも書けなくなりました。

いくつか書きたいことがあるのに関わらず、です。

 

考えると、そのいくつか書きたいことにも上の命題群はかかわってきます。

だからでしょうか。

 

他人に見られる文章と見られることを気にしない文章で揺れています。

最初は自分のために書いていたのに、知人に共有して、見られることを意識してしまった。それは当初の予定通りなのです。

ですが、もともと他人の視線を気にすることもあって、とても書くことが難しくなる時があります。

 

UIの綺麗さ的にも、SEO的にも、はなからnoteで書けば良かったのでしょうか。

 

知人にできないが知らない人にならできる話もたくさんあるので、ひっそりとnoteも始めたいと思います。

 

私の文章に私が意義を見いだせない時期なのです。

 

意義は意味は重要なことではありません。

意義や意味を必要とするとき、人は楽しくないことをしている時です。

 

文章を書くことが楽しくない。というよりは、ブログで書くことが楽しくない。

別に私はブログでなくとも、Googleドキュメントに大量に誰にも観測されない文章をためてきたし、いつでもノートかメモ帳に何か書き続けています。

 

おそらく、このブログを知人に教えたのにもかかわらず、そのメリットは全くないことも要因かもしれません。

ブログを読むのは任意で、少なくともこのような自己分析的な文章を読んでも楽しくないでしょう。

だけど、私にとっては重要なことを書いています。

 

ブログを公開しても、記事についてレスポンスがあるわけではありません。

私が、私のための文章を書けば書くほど、自分にとって重要なことが他人にとって重要ではないコンテンツと化していくのを感じます。

 

では、読むのが任意のような、自分のための文章を書くより、

読んで欲しいと言える、自分のためでもあるが、意味がある文章を書くほうが救われるというのもです。

 

結局、書きたくないという話でした。

もっとはてなブログSEO頑張ればよかったのでしょうか。

 

今は他人のふりして適当書いていたい気分なので、おはなしでも書いてるのがよさそうですね。

9/19・気づき

今日は9月19日に書いた文章をそのまま公開しようと思います。

 

ここ数日で個人的な命題について様々な進展がありました。

今回はそれをメモすることを目的とします。

 

悪意無き悪

 

私は「悪意無き悪」に対してとても弱いということがわかりました。

性格が良いが無能なため失敗する人、相手の気持ちを思いやっても言葉選びを間違える人達、相手が必要としていても自分の行動に反映できない人。

私にも不得意や弱さがありますから、「悪意無き悪」が発現することはあるでしょう。

ですが、それの量が多い人は、「悪意無き悪人」です。

 

現実的には「会うたびにモヤっとする人」と言えばよいでしょう。

 

私は幸福と正義が衝突した場合、正義より幸福を優先したいと思っています。

ですが、愛と幸福が衝突した時、私はどちらを優先すべきかわかりません。

 

「傷つけられてなお愛せるか」それはもともとのその人への愛次第でしょう。

一旦私は「悪意無き悪」の少ない人と一緒にいたい。

「悪意無き悪」から努めて距離を置こうと思いました。

 

適当になる

 

こんな文章書いていてなんですが、小学生みたな、しょうもないことをずっとやっていたいんですよね。

ここ一週間で、私にとって何がかっこいいかというのがわかってきました。

 

部屋を綺麗にして、部屋に好きなものをあつめよう。

自分がやりたいことを毎日やろう。

そして他人の前でもっと適当にしていよう。

 

カメラが好きだということや、好きなファッションについても気づきがありました。

 

いっぱいお金を稼いで、好きなものをそろえよう。

そういう俗的で、普通の望みを抱くことができました。

 

調子しだい

 

調子が良ければ、ひとりでいても楽しいし、人といても楽しい。

調子が悪ければ、ひとりでいても辛いし、人といても辛い。

 

これに尽きるのかなと思いました。

人並みに人を求め、一人の時間を求めています。

人といるのと一人でいるの、どっちが好きかという問題の前に、「メンタルと体調が大事」という至極当たり前のことに気づきました。

5人以上があまり好きでないという結論は揺るぎませんが。

 

つまり調子を常に良好でいることが何よりも大切です。

知り合いに弁解しておくと、基本的に私は調子が良いのです。安心してください。

 

良い調子のためには、音楽が大切です。

そして、身の回りに好きをあつめたり、嫌な「ことば」に触れないことが大切だと思いました。

 

自分の「嫌」

 

自分の何かに対する「嫌」という感情をもっと大切にしたいです。

信頼できない人に対して、「ちょっと嫌」というのを伝えることが難しいと思っています。

もちろん「めっちゃ嫌」は伝えることが出来ます。

「ちょっと嫌」は吐き出せない分、目に見えないストレスとして残ります。

それは調子にもかかわってきます。

年を経るにつれて「嫌」への耐性がついてきますが、それでも自分の「嫌」に正直になろうと思いました。

 

2023/09/26

 

そして今日補足しておくと、いまのところ上に書いたことを意識して生きられています。

「基本調子が良い」と書きましたが、本当にそうです。ここ1週間は楽しいことばかり

だったのもあり、とても気分が良いです。

やることが溜まってきましたが、頑張ろうと思います。

あやまりすぎる彼女の罪 #1

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

私の友人は高校の頃からよく「ごめんなさい」という子でした。

しかし、彼女はそんなに謝るほど悪いことはしていませんでした。

 

20歳になった年の春でした。

彼女に彼氏ができました。

彼女は相変わらず気を遣ってばかりでした。

それでも少しずつ心を開こうとしていましたし、お互いがお互いのことを好いている様子でした。

 

そんな気を遣ってばかりで、彼女はしんどくならないのでしょうか。

嫌われたくなくて気を遣っているなら逆効果なほどでした。

 

私も彼女も、彼女の彼氏も、同じ大学に通っていました。

私と彼女が仲が良いことから3人で会うこともしばしばありました。

 

同じ年の11月でした。

彼女の彼氏が私に好意を寄せているかもしれないと思うようになりました。

彼女の彼氏のことはこれ以降Yと呼ぶことにします。

 

私は彼女らの関係についてあまり干渉しませんでした。

友人ではあるものの、似た者同士ではありませんでした。

 

謝るということに意味がないとすら思っていました。

だって、本当に許せないとき、怒っているとき、謝られたって許せないでしょう?

そして、失敗はともかく、相手を傷つけようと思って取る行動なんてそうありません。

少なくとも私は他人を傷つけようと思うほどエネルギーに溢れた人ではありませんでした。

 

Yに彼女のことで相談があると言われ、2人でお茶をすることになりました。

Yは彼女がYに何も要求しないことから、愛を感じられなくなっていると言っていました。

彼女は気を遣ってしてほしいことを要求したり、嫌なことを嫌ということができないのでしょう。

 

私はYに好意がありませんでした。

私は一日の終わりにYの言っていたことを彼女にLINEで伝えました。

2人でお茶したことも。

 

彼女はやはり「ごめんね」と言いました。

 

彼女やYとは2か月に一度会う程度の程よい距離を保っていましたが、私たちが大学3年になってからは疎遠になってしまいました。

 

5月のある日の夕方でした。

街で彼女を見かけました。

彼女は知らない男性と腕を組んでいました。

彼女の顔は笑顔で満ちていました。

立ち去ろうとすしたとき、後ろから彼女が「まだ帰りたくない」と言っているのが聞こえました。

 

Yはずっと私に対して微妙な好意を抱き続けているようで、2か月に一度程度の程よい間隔でLINEが来ていました。

暇なときに返信していたのですが、ふと彼女と最近どうかと聞いてみました。

するとYは「良い感じに続いてるよ」と答えました。

 

そのころ、私によくしてくれていた男性の先輩に彼女が出来たのもあり、私のもともと少ない人との関わりは、さらに少なくなっていました。

Yはそれなりにイケメンで、それなりに優しく、それなりに話があいました。

 

彼女とも全く会話しないわけではありませんでした。

彼女にYのことを聞くと「良い感じに続いてるよ」と答えました。

彼女は私の前では気を遣う人間のままでした。

 

私は他人が嫌がることを進んでする人ではありません。

 

私はYが嫌いではありませんでした。

いや、そのころには少し好意がありました。

 

そして、本音を言うと私は彼女が謝るのが嫌いでした。

 

私がYと浮気をしたら彼女は謝るのかな。

あんなにも謝る彼女は、何も言わずに他の男と遊んでいる。

 

エネルギーの無い私ですが、退屈していたのと好奇心に駆られてYにLINEを送っていました。

 

※この物語はフィクションです。

つづくかもしれない

 

2023年9月26日 3時48分

白い空。灰色の正方形の小屋。

 

湿った夜だった。

すりガラスの中から雨音を聞くのが心地よかった。

 

「雨脚が弱まるか強まるかでハイローした話は過去のことだろ?」

「そんな話掘り起こさないで」

「粋人になりきれないのはお互い様だ」

彼女は頷く。

 

「でもこの雨は10分後には弱まる。5000円かけてもいいね」

「私もそう思う」

「同じ方にベットしたら賭けが成立しないよ」

 

「いつものことか」

 

僕らは誰にも観測されない小屋にいた。

天気を正確に捉えることしか、外とまじわる術がないかのように。

 

ただただこの体温に脳を溶かしていていいのだ。

何も考えず雨音より大きなノイズを奏でていればよい。

 

賭けなんて忘れている。

僕らなんて所詮そんなもんだった。

 

起きると朝で、歯を磨いて支度をすると、僕らは小屋を出た。

雨上がりの曇天。昨日までと何も変わらない空のように見えた。

 

2023年9月25日 1時23分