作文スランプ
私の頭の中は散らかった研究室のようです。
様々な思考が散らばっていてまとまらない。
だからこそ、キーボードを前にすれば言葉は溢れてきました。
これまでも、書く内容を決めずに書いてきました。
しかし、最近は頭の中でいくつかのテーゼがまとまりました。
それは私の根幹の命題でした。
救いとは何か。許しとは何か。内なる神と外にある神。絶対は絶対に存在しない。そして、愛。
この一連の命題群を文章にまとめようとすると、いつもの適当な言葉選びはしていられません。
丁寧に推敲を繰り返して、書きたいと思います。
そう思えばそう思うほど、何も書けなくなってしまいます。
単にハードルの問題でしょう。
しかし、その命題群以外のことも書けなくなりました。
いくつか書きたいことがあるのに関わらず、です。
考えると、そのいくつか書きたいことにも上の命題群はかかわってきます。
だからでしょうか。
他人に見られる文章と見られることを気にしない文章で揺れています。
最初は自分のために書いていたのに、知人に共有して、見られることを意識してしまった。それは当初の予定通りなのです。
ですが、もともと他人の視線を気にすることもあって、とても書くことが難しくなる時があります。
UIの綺麗さ的にも、SEO的にも、はなからnoteで書けば良かったのでしょうか。
知人にできないが知らない人にならできる話もたくさんあるので、ひっそりとnoteも始めたいと思います。
私の文章に私が意義を見いだせない時期なのです。
意義は意味は重要なことではありません。
意義や意味を必要とするとき、人は楽しくないことをしている時です。
文章を書くことが楽しくない。というよりは、ブログで書くことが楽しくない。
別に私はブログでなくとも、Googleドキュメントに大量に誰にも観測されない文章をためてきたし、いつでもノートかメモ帳に何か書き続けています。
おそらく、このブログを知人に教えたのにもかかわらず、そのメリットは全くないことも要因かもしれません。
ブログを読むのは任意で、少なくともこのような自己分析的な文章を読んでも楽しくないでしょう。
だけど、私にとっては重要なことを書いています。
ブログを公開しても、記事についてレスポンスがあるわけではありません。
私が、私のための文章を書けば書くほど、自分にとって重要なことが他人にとって重要ではないコンテンツと化していくのを感じます。
では、読むのが任意のような、自分のための文章を書くより、
読んで欲しいと言える、自分のためでもあるが、意味がある文章を書くほうが救われるというのもです。
結局、書きたくないという話でした。
今は他人のふりして適当書いていたい気分なので、おはなしでも書いてるのがよさそうですね。