ルサンチマンが嫌い。可愛くてごめん好き。
前提としてとても明るく、前向きな気持ちだ。
光への志向性が強すぎるまである。
今回は負の感情であるルサンチマンがよくないという話をする。
『可愛くてごめん』が良いという話もする。
つまり光の話だ。
ルサンチマン嫌い
私はルサンチマンが嫌いだ。
ルサンチマンとは哲学者ニーチェが提唱した、弱者による強者への負の感情のことである。
ルサンチマンを抱くものは弱者である自分を肯定し、強者を悪と認識する。
弱者がどれだけ善であると信じていても、生活の中で弱者であるために損をする。
だから私は、弱者である私たちは努力するべきだと思っている。
私は自分の弱さを認識しても、それが善であるとおもわない。自分に憤るだけだ。
日本の「出る杭は打たれる」とか無意味。
憎むべき絶対悪。
「僻み」「嘲り」は、人として同じ土俵で対話しようとしない感情だ。人と人がわかりあうことができたらいいなぁと思っている私からすると、ほんと悪。
可愛くてごめん
『可愛くてごめん。』が好き。
普通にキャッチーなメロディだしね。
楽曲の主人公はルサンチマンと対極にある。
「ざまあ」と言われている対象は、主人公の可愛さや頑張りを僻んでいるのだろう。
努力したものは努力しただけの利潤をえるべきだ。
でも、努力できるのも才能と言われたらどうか。
それに対しては、努力することを努力しろよと私は厳しいことを言ってやる。
(もちろん仲良ければ多少甘くなるが。)
『可愛くてごめん。』は「全く謝罪する気持ちのないごめん」なところも良い。
ルサンチマンを抱かれたものの反応は「あー、ごめん」でしかない。
ルサンチマンを抱くものを私は良く思っていないが、それらに対して「ルサンチマン抱いてんじゃねぇよぶっとばすぞ」なんて言えたものじゃない。そこまで拗れた弱者に怒りを向けてあげられない。
だから、「ごめん」と言ってムカつかせてあげることが救いなんじゃないかと思う。
仰々しくてごめん!
愚痴について
愚痴は基本的に良いものではない。
本人に言えることなら言ってもいいと思ってるが、状況しだいだ。
ルサンチマン的な愚痴は絶対だめだ。
そして、そうでない愚痴でも、最後にその負の感情にたいする補償行動。
つらいから楽しいことをしたり、そのつらいことを解決するモチベが湧くなどしないと、私はつらい。
難しいのは、怒りという感情は私は普通に良いものだと思っている。
まあ、愚痴も怒りも、私はすぐ飽きるので長々としないでほしい。
てきとうな雑記
「闇堕ち」の対義語はなんだろうか。今私はそれにある。でも上がっている感じはないので、「光堕ち」でいいかもしれない。とても良い意味で。
まじで運動しよ。筋トレしよ。前回書いたように感覚へ回帰するためにも、体を大切にしなければならない。
負けず嫌いなのでスポーツで負けたくない。基本的にボウリングなどは筋トレさえしてればストライク取れる(ソースは俺)
最近は時間のない中走りながら思考し、文章にしてきたため、彩絵の文体で文章を書いていない。やはり、自分の中で思想が固まって、優しさを加えたものが彩絵でかけるものなのだろう。時間が、必要だ。
関わりある人みんな好きだな〜って思う。そう思えば思うほどより仲の良い人への思いが強くなる。結局人間関係の理想論は、広く浅く、そして数人とは深く。が良すぎる。
みんな好きだなーという感覚で思うのは、愛は有限ではない。
特定の人を愛する為に他への愛が疎かになる必要はないのだ。
ただ、時間は有限だ。
だから、全員は拾えない。
毎日朝6:30に目がさめる。早起きできて嬉しいが、2時とかに寝たので、4時間半睡眠で回復は中途半端だし、起てまでやりたいこともないから二度寝する。
もったいない。
早寝早起きして有意義な時間を過ごしたい。
克己心駆動じゃなくて愛駆動のほうがよい。
今日も楽しかったし頑張るかーって感じで生きる。
ポジティブで終わりたい気持ちが強すぎて、いつも教訓みたいな感じで終わるが、それはそれでなんかきもい。
人に馬鹿って言いたい欲がある。(コナンのバーローみたいな感じ)
ばーーーーーーか