ミュシャと崇高さ
文章を書くことが一番ハードルが低い。
写真にはカメラと被写体が必要だし、音楽やイラストにはモチベとアイデア、環境がいる。映像も作りたい映像が必要だし、ぶっ続けで完成までいかないのは体力がいる。
まあ、これまで普通の人よりは文章を書いてきたし、慣れているからだろう。
そして、ブログをやってて、今日もなんか書くかとなるから、続けていられる。
ブログを完全に習慣にできたら、音楽をブログに添付してまいにちDTMしようかなと思ったり。
昨日ミュシャ館に行った。
昨日そこでやっていた全国学生写真・映像祭について書いたので、今回はミュシャについて書く。
ミュシャ
ミュシャ知らない人はリンクを貼っておいたので自分で調べてください。
昨日ミュシャ館にいって感じたのは、絵の中の人物が「かっけぇ」ってこと。
振り返っている構図でも、こちらをみていても、姿勢と目つきが特に良い。
この感情は、「かっこいい」「美しい」「善い・そうであるべきだ」「崇高」などの感情をミックスしたような感情だ。
立ち振る舞い方のお手本のようにも感じる。
絵の中で好きだなーで終わるのではなく、私の振る舞いもあのようにしたいと思わせてくる。
絵の中の人物は「好奇心」「余裕」「覚悟」「愉楽」などの精神状態にあることが多いと感じる。
その精神状態も私にとっては理想的だ。
ざつに列挙したが、「好奇心」「余裕」「覚悟」「愉楽」って的確だったかもしれない。
それらの感情をいつも抱いていたい。それはかっけぇ生き方だし、善い生き方になると思う。
それと「穏やか」さが大事だろう。
もっとみんな主人公であれよ
まあ常に自分を主人公だと思うのは難しいことだ。
でもミュシャをみて、こういうかっこいい顔を他人の中にあまり見ていないなと思った。
まあなにか決断したり、相手をためすような場面だったり、日常の中にみれるようなものではないけど。
私は非日常や喧騒、いろんなことがある毎日もすきだし、日常、平穏、ゆっくりした毎日も好きだ。
みんなどっちも好きだとは思う。日常があるから非日常がある。
自分は極端なので、何もなければもっと穏やかでいろと思うし、何かあればもっとかっこいい顔しろよって思う。
自分もできているはないけれども。
「やってやるぜ」「やってみろよ」みたいな顔してろ。
ミュシャの描く人物みないな崇高さ・平穏さに必要なもの
私は基本的に、行動や、創作を善いものだと思っている。
それでも、今日はこれをしたから充実していたなんて思えないし、タスクしても創作していても完全にこれが善い行為かはわからない。
それに加えて趣味やできることが多いから、どっちが今するべきことかわからない。
したい行動は毎日変わるし。何かやっていたとしても毎日違うことをやっていて安心できるわけない。
自分の趣味が一つならどれだけ幸せだっただろうか。
崇高な創作をしたい。
崇高さには、自分に適していて、自分以外の人にとっても必要で、その行為が善いと思うことが必要なのだろう。
取捨選択をしなければならないのだろうか。
もっと美しくなりたい
自分の性向とか考えずに、理想の生き方を考えたら、案外丁寧な暮らしだった。
作るものも丁寧なものを作りたいし、穏やかに生きたいんだよな。
それを目指して愚直に頑張ってみようかなとおもう。