夏果

日常の思いと創作など

写真ってなに。第2回全国学生写真・映像祭の感想

穏やかな土曜日

 

太陽が雲の後ろにあった。

空全体に薄い雲がかかっていて、その手前にいくつかの雲が浮いていた。

 

今日は早起きして堺に仕事に行った。昼で終わり、みんなで寿司を食べた。

有意義な午前。少し暑い静かな昼だった。

 

新今宮駅まで帰ったが、南海本線に乗ると間違えて快速に乗ってしまったので、そのまま「堺アルフォンス・ミュシャ館」に行った。

ミュシャが好きだ。好きな理由やミュシャについては後日語ろうと思う。

 

第2回全国学生写真・映像祭

 

ミュシャ館についたとき、たまたまそこで第2回全国学生写真・映像祭の展示をやっているらしいことを知った。

私も写真を撮るし、映像を作っているので、不安と楽しみでいっぱいだった。

ミュシャの展示を見終えた後、全国学生写真・映像祭の展示を見た。

 

うらやましい。

 

展示を見ている時は思考がまとまらなかった。

写真の中にある青春。写真を撮るという青春。写真を展示するという青春が力強く流れ込んできた。

うらやましかった。もう私も今年で学生終わりなんだ。普通にこの企画知ってたら応募してたのにな。

 

まあそれと同時に、作品自体も面白かった。

青春の前に写真の巧拙など些細なことだった。

「写真が好き」「私はフォトグラファーだ」という撮影者の声が作品群から聞こえてくるようだった。

私はいろんなものが好きなのもあって「写真が好き」と強くいうことがあまりなかった。

作品から聞こえてくる写真への愛。私はもっと写真と向き合わないとなと思った。

 

とにかく展示されている写真っていいなあと思った。

無料で見れるの普通にありがたすぎる。

ミュシャ展も大学生310円だし、感謝しかない。

 

私にはまだ到達できないような良い写真もあってよかった。

難しいこと抜きにしても、写真のモチベも上がった。

 

写真ってなに。

 

帰り道で写真とはなにか考えていた。

辿り着いたのは、私は「人と分かりあうために写真を撮る」ということだ。

 

世界は同じでもそれを見る人によって現れ方は違う。

鳥を見て、環境を想うか、鳥の気持ちを想うか、人によって違う。

ペンが文字を書くものが、絵を描くものか、マジックに使うものか、人によって違う。

入道雲が、美しいか、悲しいか、人によって違う。

世界は人の数だけ存在する。その世界は違うもので完全には分かり合えない。

その事実は孤独を伴うことがある。

 

しかし、少しも分かり合えないというわけではない。

同じ景色を見たり、詳しく自分の思いを伝えたり、世界に対しての感覚を共有できれば、少しずつ分かり合えると思う。

 

ここまで世界という曖昧な言葉を使ってきたが、写真について語る時、より具体的に話すことができる。

そこに室外機があって、斜陽が差し込んでいたら、そこから感じる哀愁を共有することができるのではないか。

それはその室外機から哀愁を感じたという点において、他人の世界と自分の世界が繋がったと言えるだろう。

そのように、世界に対して感情や感覚、思想を意味づけし、それを写真のフレームで切り取ることで、フレームに収まる小さな世界を共有できるのではないかと思う。

できなくても、相互理解への試みであることは確かだ。

 

だから私は写真を撮る。そして人に見せる。その世界について話す。

 

「意味ね それ本当に必要か?」五条悟

 

正直、ここまで考えたが意味とか理由とかなくてもいい。

写真を撮ることも見せることも楽しい。

カメラが重ければ持って行かないし、誰にも理解されない写真を撮ってもいい。

 

理論で正当化してる暇あったらもっといい写真撮れよという私もいる。

良い写真撮って、コンクールとか出してたら良いと思う。

それでも全国学生写真・映像祭は眩しすぎるが。

 

思想、感情、視覚は良くなっているが、嗅覚、味覚が鈍っている話

 

卒論やブログを書いていて思想や感情が洗練され始めた感じがする。

そうでなくてももともと考えてばかりの人なのだ。

 

「写真ってなに。」の章で自身と他者の世界の断絶について述べたが、深掘りすると実在論や観念論、ベルクソンのイマージュも交えるべきではある。

 

でもそもそも、私は「分かりあう」という一つのテーマをもって世界について哲学してるけど、分かりあいたい友達のほとんどは哲学してない、笑

だから哲学の話とか、難しいだけの話は求められない限りしないって決めてる。

そして、哲学をやればやるほど思想の断絶が明らかになるから孤独になるだけだ。

哲学は好きじゃないんだ。

 

哲学から距離を置きたい私がしたいのは感覚や感情を共有すること

今は頭でっかちすぎる。意味ばかり考えて夏油傑になっちまう。

 

考えてばかりといっても、写真や映像が好きなのもあって、視覚に関する綺麗とか、美しいとかの感情は洗練されてきてるし、共感力も高まっていると思う。

最近思うのは、視覚以外の感覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚、に関する感覚を研ぎ澄ませたいなと思う。

 

「あれ美味しかったよね」って言われて共感はできる。でも最近は自分から言い出してないな。

お酒も酔う為に飲むよりも美味しく飲んだ方がいい。

嗅覚と触覚に関してはそんなに悪くはないけど、最近はお香とかアロマとかやってない。

 

五感が使われるときとか特に、その感覚を見つめようと思う。

9月の抱負は「感覚や感情を見つめる。共有する。」だ。

 

明日は今日語れなかったミュシャについて書こうかな。