どこまでメタ的視点を信じるか
一昨日は本当に良くないことをした。
終電がなくなって、難波からなら徒歩でも2時間以内で帰れると高を括っていた。
結果的には眠いし暑いし歩くの疲れるし散々だった。
しかし、その選択に至ってしまう経緯に私の根本問題がある。
それはメタ認知である。
メタ認知
メタ認知とは客観視のことである。
自分の発言や行動を客観的に見て評価する。
メタ認知の良いところは思い込みの行動を減らしたり、行動を短いスパンで改善し続けられることだと思う。
しかし、メタ認知は主観とは違う評価軸・考え方で行わなければ意味がない。同じ結論になってしまう。主観は感情的、客観的は社会的な、他人の思考軸で考えることが多いだろう。
メタ認知の構造は何も批判して終わりではない。
「今の発言ちょっと意図が見え透きすぎかな」「いや、意図なんて見え透いてていいでしょ」「そもそもその意図自体が間違っていないか?」「その意図が正しいとしてそれを発言することは正しかったか?」
無限である。
余談だが能には、我見、離見、離見の見という認知の構造があるらしい。
我見は演者の視点。離見は観客の視点。離見の見は神の視点。
メタ認知が無限に続くことを回避することもできるし良い。
客観の感情
私は主観をおろそかにする。
「2時間も歩いたらしんどい」という感情は「2時間あるいたら今の楽しさを損なわないし散歩もできるし話にもなる」などの全体的な利益の総量に打ち砕かれる。
実際、歩いている2時間は濃い辛さがあったが、飲んでいるその時や翌日、運動できたことなどに薄い良さもある。
だが、それでも私はその「濃い辛さ」を避けるべきだったという結論に至った。
それには最近早寝早起きができているという背景がある。
それでもやってしまうのは自分をサンプルとした人間観察という「離見の見」のせいだろう。
人間観察が好きだが善意のせいで過酷なことは自分にしかさせられないのだ。
「もし自分が2時間歩いて帰って飄々としていたら最強じゃん」とかバカだから思っちゃうんだよ。
(そして、「歩くのは辛かった」という確かな観測結果が得られたから観察は有意義であった)
「自分を労わる」という客観が本当に足りていない。
自分が自分に優しくするときは、「「頑張れ」という客観が「もう無理」という主観に負ける時である」。
これは結構良い発見だと思う。
その優しく仕方であれば、「頑張れなかった」という失敗体験を得ることになる。
行為が同じならメンタルに対して良い思考過程の方が良いだろう。
だから、自分を労わる客観を育てて、「「頑張らないと」という主観が「頑張らなくていいよ」という客観に負ける」という状況を作り出すのが良いだろう。
他人と甘え
「頑張れ」という客観が「もう無理」という主観に負ける。
その不完全さをを補完するために
「頑張らないと」という私が「頑張らなくていいよ」という他人に負ける。
という甘え構造があったのだろう。
自分は自分を大切にできなかったから、他の人に大切にしてもらっていたのだろう。
(最近彼女いなくても平気なのは自分を認められてきたから?)
でも他人はいつも甘えられるわけではないし、自分を大切にする自分は必要だ。
現実的にどうするか
最近早起き出来て、有意義なことを多少できるようになった。これまでは極端にできる日とできない日があった。
現実的には朝昼はめちゃ頑張って「頑張りたい」という主観と「頑張れ」という客観でいれたらいいな。
夜は、主観が頑張りたい時は頑張って、客観がストイックになりすぎないようにしよう。
いつも自分語りばかりしていてるので、せめてもの慰めとしていいたい。
たぶんみんなもそうするればいいと思うよ。みんなだって自分の中の天使と悪魔と戦ってるでしょ。
できるだけ面白いこと書くからこれからも読んでくださいね。(甘え)