夏果

日常の思いと創作など

「信じる」とは何か

広辞苑によると「信じる」とはこのような意味らしい。

 

しん・じる【信じる】
❶ 少しの疑いも持たずにそのことが本当であると思う。
「神は存在すると━」
「霊魂の不滅を━」
「従来の学説を━・じて疑わない」
❷ 自分の考えや判断が確実であると思う。確信する。
「僕は彼がきっと来ると固く━・じている」
「彼女の成功を━」
❸ 相手のことばや人柄に偽りがないものと思う。信用する。信頼する。
「私を━・じてついてきなさい」
「もう誰も━・じられない」
❹ 信仰する。信心する。〜に帰依きえする。
「仏教を篤く━」

 

これに異を唱えることはないが、「信じる」という言葉を使った時点で、その信じる対象は「信じられなさ」を孕むものであだろうと私は思う。

なぜなら、当たり前のことに「信じる」という言葉を使うことはない。

「これが鉛筆だと信じる」「1+1=2 であると信じる」

などはおかしな文章である。

 

つまり、「神の存在」「学説」「人」など、信じない人がいるようなことを「信じる」のが普通なのだ。

「信じる」という言葉が仰々しいのは、「少なくとも私は、信じる」というニュアンスがあるからだ。

その特別性は、「信じる」という言葉を崇高なものたらしめる。

 

「人間不信」という言葉は軽率に使うと浅はかである。

人間不信の人は一体人間の何が信じられないのだろうか。

人間が自分の味方をしてくれないと思っているのだろうか。

それは当たり前である。

関係の深い人にしか、「相手が自分をそれなりに想ってくれていること」を信じれないものだ。

 

人間不信でなくとも「他人の想い」を「信じる」なんて難し過ぎる。

「信じる」より先に「推測」してしまうのが人なのではないか?

「自分といる時にあの人は楽しそうにしていたから少なくとも嫌われてはないだろう」程度の悲観的な推測をしてしまう人は多いのではないだろうか。

みんなはもっと楽観的なのかな。

 

人間不信という言葉を使う人は、自称する人も論じる人も、人を信じたいのだろう。

前述したように「信じる」ことは特別なことだから。

 

「信じない人がいるようなこと」のみ「信じる」対象だと述べた。

普通の関係で信じるなんて言葉を使うのも大袈裟だ。

つまり、普通でないことをするのがいい。

多少普通でない関係が良いだろう。

社会的なことは「信じる」必要がない。

 

最後に自分を信じることについて。

自分の能力、可能性は「信じる」対象となりうる曖昧なものである。

それゆえ「あなたならできるって信じてる」みたいな甘い言葉も生まれる。

「自分を信じれない奴に努力する価値はない」とガイ先生は言った。

その場合は「自分が努力できるということ」「努力が実るということ」を信じているのだろうか。

 

自分を信じるのは自分なのだから、本当に信じていたらそれこそ「自分を信じている」なんて言葉は生まれないと思う。

「え?できるっしょ」

みたいな言動こそ、本当に信じている人の言葉だ。

「私はできる」と自分に唱える行為は、益になる人も害になる人もいるだろう。

はたして何が正解なのだろうか。

そして、自分を信じる場合他人に信じてもらうしかないのだろうか。

そのとき、信じてくれるというその他人の言葉を信じることができるのだろうか。

 

現実的には、共同開発やチームプロジェクトなどを通して努力すれば互いを信じあうのに自然だと思う。

それすら信頼が必要なので、ぶつかってみなけれは袋小路である。

 

救いを信じる必要はなく、行動するだけ。