好きが自分の中にあるか、外にあるか
前回「可愛くてごめん」が好きと言った。
その発言に誤りはないが、軽率ではあった。
「好き」という言葉は、会話の中なら文脈があるので余情が伝わるが、文章では丁寧に伝えるべきだなと思った。
自分の外の好き
今回は「好き」という感情に関わる、自分の中、外の話をする。
私は好きなものが多い。
物の少ない綺麗な部屋も、物の多い無造作な部屋も好き。
インドも中国も日本もアメリカも好き。
でもそれは自分の外の話だ。
自分の外にあるから、相反するものに対しても好きという気持ちを抱くことができるのだろうか。
そればかりか、弱者や諍いなども客観的に面白さを見いだすことができる。
その自分の外の好きは物理的・精神的に私を構成する要素になりえない。
「可愛くてごめん」は好きだが、自分の外の好きだということだ。
コンテンツに対して「自分の中の好き」という気持ちを抱くことはほとんどない。
自分の中の好き
それに対して自分の中にある好きなものもある。
例えば白や黒は好きで、かつ私の中にある。
私の身の回りの物(私の物理的な要素)を無彩色が満たしている。
自分の中の好きを増やしたい
自分の中の好きを増やしたい。
相反するものに対して同じ量の「好き」を抱いたときに選択することができるから。
自分を表現する時に必要だから。
別の話たち
自分の中・外の話があまりにも自分語り過ぎた上に普遍化出来なかったので別の話をする。
・階段をのぼる時、一段一段にしっかりと足を乗せた方が良いなと思う。今はつま先だけのせてたりしてた。でもそれは若さとバランス感覚に頼り過ぎていたと思う。怪談って普通に踏み外したら死ぬよな。。。
・「浮気されたら別れる?」って質問に「別れる」と即答するのは正しい。だが、それは質問者に対して暴力的だと思う。これ以上言及しないけど。
・秋が寂しい。でも最近人恋しいというわけでもない。とても安定。残りの半年頑張らないといけないことが多すぎて燃えているからか。
・過去一のアイデアがある。とても良くて、とても大変だ。他人を巻き込む想定もある。私はもっと頑張らないといけない。
・でも、無理して頑張るとか、無理して助けるとか、どこまで無理するべきなのだろうか。でも仲間のために無理するなら、なんぼでも無理できるよなぁと。
一旦今日は部屋の片づけ・掃除をして、いろんなタスクを進める。
細分化したら不可能なんてないよなー。
そして自分の中にある創作を続けたいな。