夏果

日常の思いと創作など

雨と窓ガラス。感情の落書き

雨と窓

 

雨の日、窓ガラスに雨粒がくっついて、下に垂れてゆく。

その軌跡がぶつかったり、加速したり、とても面白い。

暗い部屋の外は、曇りとはいえ、青白い明るさに満ちている。

子供は外を見ることなく、目の前の雨粒をずっと見つめるのだ。

もう戻れない。

雨粒が一番下まで流れるのを見届けられるか?

しゃがんだとて、もう一番下は見えない。

必死に追ったとして、別の雨粒に目が奪われてしまう。

閉塞感によって、窓ガラスの一点を見つめてしまうだろう。

子供にとって雨の世界も輝いているのだ。

暗い部屋、雨、窓ガラス。

それでも哀愁を押し付けてはならない。

 

以下雑記

 

悩むことは不幸なことじゃないと昨日の文章で書いた。

それは普遍的だからそうだ。悩んで解決してより幸せになる。

 

今回は感情の余情についてとても感覚的な話をしようと思う。

 

悲しみと孤独はとても違う

 

孤独なときは寂しい。

寂しさも悲しさも共有できれば孤独じゃないし、

孤独を知ったもの同士の寄り添いは、孤独じゃなさすぎる。

 

私はもの悲しいとき、別に孤独ではないのだが、あなたはどうだろうか。

もちろん悲しすぎたら人の話を聞いてもらいたくなるのだが。

 

怒りも共感してもらえなければ孤独だ。

怒りは自分以外に、怒りを向ける対象があるから孤独じゃないという人もいるだろうが、どうだろうか。

たぶん正しくはあるが、怒りを理解してもらえなければ、世界が自分とそれ以外に分裂してしまう。

 

哲学的孤独ローランド「俺か、俺以外か、、、」

 

感情と友達

 

悲しみも怒りも友達だ。

嘲りや嫉妬は敵だ。

羨望や悔しさは自分自身のような感じがする。

喜び、楽しみ、などの光の感情はシンプルに自分が抱く感情といったところか。

それか、おいしいジュースのような感じだ。

 

ダウナーとアッパー

 

別に躁鬱じゃないと思うけど、テンションは乱高下する。

どっちが良いとかないけど、ダウナーは、チルなら良いが、バッドに入ることもしばしば。テンション上がりすぎてしんどい時もある。

 

最近は安定している。

最近気づいたのは、ずっとチルしてるのが理想なんだ。

 

今回の文章は冒頭の雨についての随筆で終わっている。

今日はおやすみということで。

悩んでない人が嫌い。

逆メンヘラが嫌い

 

悩んでない人が嫌いだ。

人生に正解なんてないのに、自分の生き方を完全に確立している人が嫌いだ。

傲慢さが滲み出る。

生き方を確立しても、「数ある選択肢の中から私にはこういう生き方がよいのかなーとおもったんだよね」ぐらい謙虚であれ。

「だってこういう生き方の方がいいじゃん」ってのが嫌いすぎる。

生き方を決めること、正解だと思い込むことは「余情」を殺す行為だ。

全ての人間は全ての事実について「かもしれない」とずっと思っとけ。

 

めっちゃ偏見だけど、

水商売やってて人生波乱万丈で苦渋を啜ってきた自負があってなまじ尊敬されてる人、こういう傲慢さに陥りがち。

古くからコミュニティにいる先輩とかOBとかも、傲慢さ持っている人多め。

 

サバサバしすぎているのも嫌い。

そんなに自己確立してて、しかも人恋しくないんだったら、相談に乗る必要ないんだったら、私と遊ぶ必要あります?

って反抗しちゃう。

 

まあどんなに自分があっても、傲慢に上から語ってこなければ全然よい。

 

上記のような人を私は逆メンヘラと呼んでいる。

しかし、逆メンヘラはメンヘラの反動でなることもある。

 

また、メンヘラのモードチェンジである可能性もある。

というのは彼氏の前だけではちょいメンヘラで、後輩とかには傲慢な逆メンヘラみたいなパターンもある。

 

断定口調で話すなよ。世界には魔法もあるかもしれないだろ。

 

傲慢な説法

 

今気づいたのは、自分が「釈迦に説法」されている状態(釈迦とまではいかなくても、それなりに知っている)で、

相手が謙虚に話してたら微笑んであげられるが、鼻をたかくしていたり、私が釈迦であると微塵も思ってないような態度ではなされるとムカつくよねー

 

許すまじ。

 

「釈迦に謙虚な説法」「釈迦に傲慢な説法」という言葉をここに作っておく。

便利だと思う。

 

悩んでいる人が好き

 

まず、メンヘラについて語ろう。

メンヘラと言ってもいろいろあるから一括りにするのはよくない。

 

でも、悩んでる人や自分に自信のない人、は好き。

誤解してほしくないのは不幸な人が好きなわけではない。

そもそも、悩むことは不幸なことではない。

 

そして同じことで進歩も変化もなく悩み続ける人は好きじゃない。

話聞いて、共感して、ちょっとアドバイスして、それがまったく活かされてないのが続くのは人として誠実じゃないだろ。

まあメンヘラというレッテルにあまえがちなので、メンヘラを自称している人はだいたい好きじゃないんだけど。

 

まあだいたいの人は悩んでる。

だから好きのベクトルではなすと、真摯に生きてる人は大体悩んでるから、俺の友達はみんな「悩んでる人」にあてはまる。

 

嫌いなことについて語りたかった

 

今回は悩んでいる人が好きということよりも、悩んでなくて傲慢に語ってくるやつが嫌いという話をしたかった。

 

前のルサンチマンが嫌いという話のつづきだ。

 

弱者に甘んじる奴らが嫌い。そして、弱者じゃない確立された自分に甘んじている奴らも嫌い。

だって、人はみな弱者なのだから。

 

といいつつも、この嫌悪は若さゆえな気もする。

法律的には大人だが、大人への抵抗感があるから。

 

傲慢な少年か謙虚な大人でいたい。みんなそうあれよ。

 

悩んで、泣いて、転んで、泥啜って。雨の中、路端に咲くカタバミを見つけるような。

そんな生き方しろ!!!!(応援)

 

2023/09/07

好きが自分の中にあるか、外にあるか

前回「可愛くてごめん」が好きと言った。

その発言に誤りはないが、軽率ではあった。

「好き」という言葉は、会話の中なら文脈があるので余情が伝わるが、文章では丁寧に伝えるべきだなと思った。

 

自分の外の好き

 

今回は「好き」という感情に関わる、自分の中、外の話をする。

 

私は好きなものが多い。

物の少ない綺麗な部屋も、物の多い無造作な部屋も好き。

インドも中国も日本もアメリカも好き。

 

でもそれは自分の外の話だ。

自分の外にあるから、相反するものに対しても好きという気持ちを抱くことができるのだろうか。

そればかりか、弱者や諍いなども客観的に面白さを見いだすことができる。

 

その自分の外の好きは物理的・精神的に私を構成する要素になりえない。

「可愛くてごめん」は好きだが、自分の外の好きだということだ。

コンテンツに対して「自分の中の好き」という気持ちを抱くことはほとんどない。

 

自分の中の好き

 

それに対して自分の中にある好きなものもある。

例えば白や黒は好きで、かつ私の中にある。

私の身の回りの物(私の物理的な要素)を無彩色が満たしている。

 

 

自分の中の好きを増やしたい

 

自分の中の好きを増やしたい。

相反するものに対して同じ量の「好き」を抱いたときに選択することができるから。

自分を表現する時に必要だから。

 

別の話たち

 

自分の中・外の話があまりにも自分語り過ぎた上に普遍化出来なかったので別の話をする。

 

・階段をのぼる時、一段一段にしっかりと足を乗せた方が良いなと思う。今はつま先だけのせてたりしてた。でもそれは若さとバランス感覚に頼り過ぎていたと思う。怪談って普通に踏み外したら死ぬよな。。。

 

・「浮気されたら別れる?」って質問に「別れる」と即答するのは正しい。だが、それは質問者に対して暴力的だと思う。これ以上言及しないけど。

 

・秋が寂しい。でも最近人恋しいというわけでもない。とても安定。残りの半年頑張らないといけないことが多すぎて燃えているからか。

 

・過去一のアイデアがある。とても良くて、とても大変だ。他人を巻き込む想定もある。私はもっと頑張らないといけない。

 

・でも、無理して頑張るとか、無理して助けるとか、どこまで無理するべきなのだろうか。でも仲間のために無理するなら、なんぼでも無理できるよなぁと。

 

一旦今日は部屋の片づけ・掃除をして、いろんなタスクを進める。

細分化したら不可能なんてないよなー。

そして自分の中にある創作を続けたいな。

 

ルサンチマンが嫌い。可愛くてごめん好き。

前提としてとても明るく、前向きな気持ちだ。

光への志向性が強すぎるまである。

今回は負の感情であるルサンチマンがよくないという話をする。

『可愛くてごめん』が良いという話もする。

つまり光の話だ。

 

ルサンチマン嫌い

 

私はルサンチマンが嫌いだ。
ルサンチマンとは哲学者ニーチェが提唱した、弱者による強者への負の感情のことである。
ルサンチマンを抱くものは弱者である自分を肯定し、強者を悪と認識する。

 

弱者がどれだけ善であると信じていても、生活の中で弱者であるために損をする。
だから私は、弱者である私たちは努力するべきだと思っている。
私は自分の弱さを認識しても、それが善であるとおもわない。自分に憤るだけだ。

 

日本の「出る杭は打たれる」とか無意味。
憎むべき絶対悪。

「僻み」「嘲り」は、人として同じ土俵で対話しようとしない感情だ。人と人がわかりあうことができたらいいなぁと思っている私からすると、ほんと悪。

 

可愛くてごめん

 

『可愛くてごめん。』が好き。

普通にキャッチーなメロディだしね。

 

www.youtube.com


楽曲の主人公はルサンチマンと対極にある。
「ざまあ」と言われている対象は、主人公の可愛さや頑張りを僻んでいるのだろう。
努力したものは努力しただけの利潤をえるべきだ。

 

でも、努力できるのも才能と言われたらどうか。
それに対しては、努力することを努力しろよと私は厳しいことを言ってやる。
(もちろん仲良ければ多少甘くなるが。)

 

『可愛くてごめん。』は「全く謝罪する気持ちのないごめん」なところも良い。
ルサンチマンを抱かれたものの反応は「あー、ごめん」でしかない。
ルサンチマンを抱くものを私は良く思っていないが、それらに対して「ルサンチマン抱いてんじゃねぇよぶっとばすぞ」なんて言えたものじゃない。そこまで拗れた弱者に怒りを向けてあげられない。

だから、「ごめん」と言ってムカつかせてあげることが救いなんじゃないかと思う。

仰々しくてごめん!

 

愚痴について

 

愚痴は基本的に良いものではない。

本人に言えることなら言ってもいいと思ってるが、状況しだいだ。

ルサンチマン的な愚痴は絶対だめだ。

そして、そうでない愚痴でも、最後にその負の感情にたいする補償行動。

つらいから楽しいことをしたり、そのつらいことを解決するモチベが湧くなどしないと、私はつらい。

 

難しいのは、怒りという感情は私は普通に良いものだと思っている。

まあ、愚痴も怒りも、私はすぐ飽きるので長々としないでほしい。

 

てきとうな雑記

 

「闇堕ち」の対義語はなんだろうか。今私はそれにある。でも上がっている感じはないので、「光堕ち」でいいかもしれない。とても良い意味で。

 

まじで運動しよ。筋トレしよ。前回書いたように感覚へ回帰するためにも、体を大切にしなければならない。

負けず嫌いなのでスポーツで負けたくない。基本的にボウリングなどは筋トレさえしてればストライク取れる(ソースは俺)

 

最近は時間のない中走りながら思考し、文章にしてきたため、彩絵の文体で文章を書いていない。やはり、自分の中で思想が固まって、優しさを加えたものが彩絵でかけるものなのだろう。時間が、必要だ。

 

関わりある人みんな好きだな〜って思う。そう思えば思うほどより仲の良い人への思いが強くなる。結局人間関係の理想論は、広く浅く、そして数人とは深く。が良すぎる。

みんな好きだなーという感覚で思うのは、愛は有限ではない。

特定の人を愛する為に他への愛が疎かになる必要はないのだ。

ただ、時間は有限だ。

だから、全員は拾えない。

 

毎日朝6:30に目がさめる。早起きできて嬉しいが、2時とかに寝たので、4時間半睡眠で回復は中途半端だし、起てまでやりたいこともないから二度寝する。

もったいない。

早寝早起きして有意義な時間を過ごしたい。

 

克己心駆動じゃなくて愛駆動のほうがよい。

今日も楽しかったし頑張るかーって感じで生きる。

ポジティブで終わりたい気持ちが強すぎて、いつも教訓みたいな感じで終わるが、それはそれでなんかきもい。

 

人に馬鹿って言いたい欲がある。(コナンのバーローみたいな感じ)

ばーーーーーーか

ミュシャと崇高さ

文章を書くことが一番ハードルが低い。

写真にはカメラと被写体が必要だし、音楽やイラストにはモチベとアイデア、環境がいる。映像も作りたい映像が必要だし、ぶっ続けで完成までいかないのは体力がいる。

まあ、これまで普通の人よりは文章を書いてきたし、慣れているからだろう。

そして、ブログをやってて、今日もなんか書くかとなるから、続けていられる。

ブログを完全に習慣にできたら、音楽をブログに添付してまいにちDTMしようかなと思ったり。

 

 

昨日ミュシャ館に行った。

昨日そこでやっていた全国学生写真・映像祭について書いたので、今回はミュシャについて書く。

 

ミュシャ

 

mucha.sakai-bunshin.com

 

ミュシャ知らない人はリンクを貼っておいたので自分で調べてください。

 

昨日ミュシャ館にいって感じたのは、絵の中の人物が「かっけぇ」ってこと。

振り返っている構図でも、こちらをみていても、姿勢と目つきが特に良い。

この感情は、「かっこいい」「美しい」「善い・そうであるべきだ」「崇高」などの感情をミックスしたような感情だ。

立ち振る舞い方のお手本のようにも感じる。

絵の中で好きだなーで終わるのではなく、私の振る舞いもあのようにしたいと思わせてくる。

絵の中の人物は「好奇心」「余裕」「覚悟」「愉楽」などの精神状態にあることが多いと感じる。

その精神状態も私にとっては理想的だ。

ざつに列挙したが、「好奇心」「余裕」「覚悟」「愉楽」って的確だったかもしれない。

それらの感情をいつも抱いていたい。それはかっけぇ生き方だし、善い生き方になると思う。

それと「穏やか」さが大事だろう。

 

もっとみんな主人公であれよ

 

まあ常に自分を主人公だと思うのは難しいことだ。

でもミュシャをみて、こういうかっこいい顔を他人の中にあまり見ていないなと思った。

まあなにか決断したり、相手をためすような場面だったり、日常の中にみれるようなものではないけど。

 

私は非日常や喧騒、いろんなことがある毎日もすきだし、日常、平穏、ゆっくりした毎日も好きだ。

みんなどっちも好きだとは思う。日常があるから非日常がある。

自分は極端なので、何もなければもっと穏やかでいろと思うし、何かあればもっとかっこいい顔しろよって思う。

自分もできているはないけれども。

 

「やってやるぜ」「やってみろよ」みたいな顔してろ。

 

ミュシャの描く人物みないな崇高さ・平穏さに必要なもの

 

私は基本的に、行動や、創作を善いものだと思っている。

それでも、今日はこれをしたから充実していたなんて思えないし、タスクしても創作していても完全にこれが善い行為かはわからない。

それに加えて趣味やできることが多いから、どっちが今するべきことかわからない。

したい行動は毎日変わるし。何かやっていたとしても毎日違うことをやっていて安心できるわけない。

 

自分の趣味が一つならどれだけ幸せだっただろうか。

崇高な創作をしたい。

崇高さには、自分に適していて、自分以外の人にとっても必要で、その行為が善いと思うことが必要なのだろう。

 

取捨選択をしなければならないのだろうか。

 

もっと美しくなりたい

 

自分の性向とか考えずに、理想の生き方を考えたら、案外丁寧な暮らしだった。

作るものも丁寧なものを作りたいし、穏やかに生きたいんだよな。

 

それを目指して愚直に頑張ってみようかなとおもう。

写真ってなに。第2回全国学生写真・映像祭の感想

穏やかな土曜日

 

太陽が雲の後ろにあった。

空全体に薄い雲がかかっていて、その手前にいくつかの雲が浮いていた。

 

今日は早起きして堺に仕事に行った。昼で終わり、みんなで寿司を食べた。

有意義な午前。少し暑い静かな昼だった。

 

新今宮駅まで帰ったが、南海本線に乗ると間違えて快速に乗ってしまったので、そのまま「堺アルフォンス・ミュシャ館」に行った。

ミュシャが好きだ。好きな理由やミュシャについては後日語ろうと思う。

 

第2回全国学生写真・映像祭

 

ミュシャ館についたとき、たまたまそこで第2回全国学生写真・映像祭の展示をやっているらしいことを知った。

私も写真を撮るし、映像を作っているので、不安と楽しみでいっぱいだった。

ミュシャの展示を見終えた後、全国学生写真・映像祭の展示を見た。

 

うらやましい。

 

展示を見ている時は思考がまとまらなかった。

写真の中にある青春。写真を撮るという青春。写真を展示するという青春が力強く流れ込んできた。

うらやましかった。もう私も今年で学生終わりなんだ。普通にこの企画知ってたら応募してたのにな。

 

まあそれと同時に、作品自体も面白かった。

青春の前に写真の巧拙など些細なことだった。

「写真が好き」「私はフォトグラファーだ」という撮影者の声が作品群から聞こえてくるようだった。

私はいろんなものが好きなのもあって「写真が好き」と強くいうことがあまりなかった。

作品から聞こえてくる写真への愛。私はもっと写真と向き合わないとなと思った。

 

とにかく展示されている写真っていいなあと思った。

無料で見れるの普通にありがたすぎる。

ミュシャ展も大学生310円だし、感謝しかない。

 

私にはまだ到達できないような良い写真もあってよかった。

難しいこと抜きにしても、写真のモチベも上がった。

 

写真ってなに。

 

帰り道で写真とはなにか考えていた。

辿り着いたのは、私は「人と分かりあうために写真を撮る」ということだ。

 

世界は同じでもそれを見る人によって現れ方は違う。

鳥を見て、環境を想うか、鳥の気持ちを想うか、人によって違う。

ペンが文字を書くものが、絵を描くものか、マジックに使うものか、人によって違う。

入道雲が、美しいか、悲しいか、人によって違う。

世界は人の数だけ存在する。その世界は違うもので完全には分かり合えない。

その事実は孤独を伴うことがある。

 

しかし、少しも分かり合えないというわけではない。

同じ景色を見たり、詳しく自分の思いを伝えたり、世界に対しての感覚を共有できれば、少しずつ分かり合えると思う。

 

ここまで世界という曖昧な言葉を使ってきたが、写真について語る時、より具体的に話すことができる。

そこに室外機があって、斜陽が差し込んでいたら、そこから感じる哀愁を共有することができるのではないか。

それはその室外機から哀愁を感じたという点において、他人の世界と自分の世界が繋がったと言えるだろう。

そのように、世界に対して感情や感覚、思想を意味づけし、それを写真のフレームで切り取ることで、フレームに収まる小さな世界を共有できるのではないかと思う。

できなくても、相互理解への試みであることは確かだ。

 

だから私は写真を撮る。そして人に見せる。その世界について話す。

 

「意味ね それ本当に必要か?」五条悟

 

正直、ここまで考えたが意味とか理由とかなくてもいい。

写真を撮ることも見せることも楽しい。

カメラが重ければ持って行かないし、誰にも理解されない写真を撮ってもいい。

 

理論で正当化してる暇あったらもっといい写真撮れよという私もいる。

良い写真撮って、コンクールとか出してたら良いと思う。

それでも全国学生写真・映像祭は眩しすぎるが。

 

思想、感情、視覚は良くなっているが、嗅覚、味覚が鈍っている話

 

卒論やブログを書いていて思想や感情が洗練され始めた感じがする。

そうでなくてももともと考えてばかりの人なのだ。

 

「写真ってなに。」の章で自身と他者の世界の断絶について述べたが、深掘りすると実在論や観念論、ベルクソンのイマージュも交えるべきではある。

 

でもそもそも、私は「分かりあう」という一つのテーマをもって世界について哲学してるけど、分かりあいたい友達のほとんどは哲学してない、笑

だから哲学の話とか、難しいだけの話は求められない限りしないって決めてる。

そして、哲学をやればやるほど思想の断絶が明らかになるから孤独になるだけだ。

哲学は好きじゃないんだ。

 

哲学から距離を置きたい私がしたいのは感覚や感情を共有すること

今は頭でっかちすぎる。意味ばかり考えて夏油傑になっちまう。

 

考えてばかりといっても、写真や映像が好きなのもあって、視覚に関する綺麗とか、美しいとかの感情は洗練されてきてるし、共感力も高まっていると思う。

最近思うのは、視覚以外の感覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚、に関する感覚を研ぎ澄ませたいなと思う。

 

「あれ美味しかったよね」って言われて共感はできる。でも最近は自分から言い出してないな。

お酒も酔う為に飲むよりも美味しく飲んだ方がいい。

嗅覚と触覚に関してはそんなに悪くはないけど、最近はお香とかアロマとかやってない。

 

五感が使われるときとか特に、その感覚を見つめようと思う。

9月の抱負は「感覚や感情を見つめる。共有する。」だ。

 

明日は今日語れなかったミュシャについて書こうかな。

どこまでメタ的視点を信じるか

一昨日は本当に良くないことをした。

終電がなくなって、難波からなら徒歩でも2時間以内で帰れると高を括っていた。

結果的には眠いし暑いし歩くの疲れるし散々だった。

 

しかし、その選択に至ってしまう経緯に私の根本問題がある。

それはメタ認知である。

 

メタ認知

 

メタ認知とは客観視のことである。

自分の発言や行動を客観的に見て評価する。

メタ認知の良いところは思い込みの行動を減らしたり、行動を短いスパンで改善し続けられることだと思う。

 

しかし、メタ認知は主観とは違う評価軸・考え方で行わなければ意味がない。同じ結論になってしまう。主観は感情的、客観的は社会的な、他人の思考軸で考えることが多いだろう。

 

メタ認知の構造は何も批判して終わりではない。

メタ認知メタ認知など、無限に繰り返すことができる。

 

「今の発言ちょっと意図が見え透きすぎかな」「いや、意図なんて見え透いてていいでしょ」「そもそもその意図自体が間違っていないか?」「その意図が正しいとしてそれを発言することは正しかったか?」

 

無限である。

 

余談だが能には、我見、離見、離見の見という認知の構造があるらしい。

我見は演者の視点。離見は観客の視点。離見の見は神の視点。

メタ認知が無限に続くことを回避することもできるし良い。

 

客観の感情

 

私は主観をおろそかにする。

「2時間も歩いたらしんどい」という感情は「2時間あるいたら今の楽しさを損なわないし散歩もできるし話にもなる」などの全体的な利益の総量に打ち砕かれる。

実際、歩いている2時間は濃い辛さがあったが、飲んでいるその時や翌日、運動できたことなどに薄い良さもある。

だが、それでも私はその「濃い辛さ」を避けるべきだったという結論に至った。

それには最近早寝早起きができているという背景がある。

 

それでもやってしまうのは自分をサンプルとした人間観察という「離見の見」のせいだろう。

人間観察が好きだが善意のせいで過酷なことは自分にしかさせられないのだ。

「もし自分が2時間歩いて帰って飄々としていたら最強じゃん」とかバカだから思っちゃうんだよ。

(そして、「歩くのは辛かった」という確かな観測結果が得られたから観察は有意義であった)

 

「自分を労わる」という客観が本当に足りていない。

自分が自分に優しくするときは、「「頑張れ」という客観が「もう無理」という主観に負ける時である」。

これは結構良い発見だと思う。

その優しく仕方であれば、「頑張れなかった」という失敗体験を得ることになる。

行為が同じならメンタルに対して良い思考過程の方が良いだろう。

だから、自分を労わる客観を育てて、「「頑張らないと」という主観が「頑張らなくていいよ」という客観に負ける」という状況を作り出すのが良いだろう。

 

他人と甘え

 

「頑張れ」という客観が「もう無理」という主観に負ける。

 

その不完全さをを補完するために

 

「頑張らないと」という私が「頑張らなくていいよ」という他人に負ける。

 

という甘え構造があったのだろう。

自分は自分を大切にできなかったから、他の人に大切にしてもらっていたのだろう。

(最近彼女いなくても平気なのは自分を認められてきたから?)

 

でも他人はいつも甘えられるわけではないし、自分を大切にする自分は必要だ。

 

現実的にどうするか

 

最近早起き出来て、有意義なことを多少できるようになった。これまでは極端にできる日とできない日があった。

現実的には朝昼はめちゃ頑張って「頑張りたい」という主観と「頑張れ」という客観でいれたらいいな。

夜は、主観が頑張りたい時は頑張って、客観がストイックになりすぎないようにしよう。

 

いつも自分語りばかりしていてるので、せめてもの慰めとしていいたい。

たぶんみんなもそうするればいいと思うよ。みんなだって自分の中の天使と悪魔と戦ってるでしょ。

 

できるだけ面白いこと書くからこれからも読んでくださいね。(甘え)