re夏果
雲居
暑すぎない陽の光に触れると、少し優しくなれます。
朝日に複雑な心中がてらされ、複雑な影ができてしまうのではないかと思いました。
影の形が見えずとも、心中は他人にも透けてみえるようですね。
昨日から今朝にかけて嫌なことが連鎖しました。
とても落ちこんでしまいました。
気を遣わせました。
コーンスープを飲むとやさしくなれました。
心のあたたかさはこれからはコーンスープで補給することにします。
みんな優しいと思います。
そして、私に降りかかったひとつひとつの嫌なことは耐えられるものだと思います。
事象と内省
昨日嫌なこと言われました。しかし、本人は酔っていたので覚えていないようです。
それによって気づけたことがたくさんありました。
愛は与えるものでもないのですね。
好意も向けるものではないのですね。
そして、愛も好意も与えるものではんく、自分の中に抱くものなのかもしれません。
私は、好意を向けられるために好意を向けているのではありません。
人として誰でもある好意を抱かれたいという思いを持ちつつも、好意を抱かれると思っていませんでした。
私が相手からの好意を期待しないのは傷つきたくないからでしょう。
好意を抱かれたいという気持ちは普通だと思います。
その結果、愛すること、こちらが好意を抱くことに焦点を当ててきました。
それはあまり間違っているとは思えません。
ですが、他者の好意を欲する私たちは(あなたもそうでしょう?)、見返りなく好意を向けていても、それが相手に伝わることはないのですね。
「好意を向けられても返されるとは限らない」といった趣旨のことを言われました。
そう言われるに至った私も悪いのでしょうね。
ただ、記憶が曖昧でわるいのですが、「返される」と「返せる」では意味が大きく違ってきます。主語が変わってしまいます。
本人も完全に記憶がないようなのでこれ以上考えても仕方がありません。
忙しい世界にあてられていたのか
考えるうちに、好意を「向ける」という感覚が変な気がしてきました。
「向ける」ことすら傲慢なのかもしれません。
好意は行動の免罪符にもなります。
私は他人が嫌がることは絶対にしたくないので注意をしています。なので、これまでの行動が間違っているとは思いません。
ただ、もっと丁寧に真摯に行動するべきかもしれません。
相手との関係値を測ることはとてもむずかしいことだからです。
ただただ、無理せず仲良い人に優しくしていれば、それでよかったんですね。
ひとつの世界のエンドロール。夏果を受け入れる。
もうこの文章限りで「愛」という言葉を軽々しく使うのをやめようと思います。
というよりは、考えすぎることは良くないと思いました。
概念考察系ブログなのかもしれませんし、私はこれからも考え続けるでしょう。
ただ、これまで他者について考え過ぎていました。
他者というのは、「他者」という言葉で括れるものではありません。
具体的にあなたにとって私がいて、私にとってあなたや彼女ら彼らがいる。
自分が他者かではなく、自分と二人称のあなたで他人について考えるために、おおきなことをかんがえるのをやめようと思います。
自分は自分の世界に耽溺できなかった結果他者の愛をもとめているのか?
章題の通りです。
夏果という孤独は悪いものではない気がしてきました。
それは美しいからです。
でも寂しいから嫌なのです。
私は最近の文章のようにアイデンティティクライシスが落ち着いてきました。
自己の確立の次は、私の世界の確立を目指すのが良いと思います。
それは作品での表現で行います。
クリエイターだからこういう負の感情は喜んで向き合います。
寂しがって、愛されたくて。
わかりあえたりわかりあえなかったりして、生きていく。普通に。
仲良い人に優しくする。丁寧に。
そして、自分の世界を、自分の時間を大切にする。
夏果を日傘をさして朗らかに歩いていきます。
哀しく、温かい光の中で。
2023/09/14