李徴、乙骨憂太、おんたん、そして私。
静かな朝が好き。
このブログも数人にしか見られていないことに、心地よさを覚える自分がいます。
1人でも見てくれている方がいると励みになります。
承認について
承認はぬるま湯でしかありません。
褒められるのは心地いい。
ですが褒められるために創作することありません。
創作は脳内イメージを具現化することや責任、それ自体の楽しさを原動力に行っています。
それでいて出来た作品や良い行動は、褒められると心地いい。
「心地いい」にすぎませんが。
私が求めているのは愛だという話をします。それも恩寵を。
私のナルシシズム
私のナルシシズムについて説明させてください。
自己愛が強いが、自己肯定感が低いのではないかと思います。
ですが自己効力感は強く、克己心もあります。
そして、罪を負って生きいる意識があります。
辛いことがあると、「愛しい私に辛い思いをさせた私が憎い」とよく思っていました。
乖離の傾向があるとはいえこれは全く乖離ではないと思っています。
上の文章で憎んでいるのは私の能力です。
私は自分を愛していて、自分の存在を赦せなくて、自分の能力に不足を感じていて、自分の才能や可能性を過信しています。
山月記の脱却と原罪の獲得
山月記に「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というフレーズがありますね。
高校生のころの私はまさにそれでした。
自己愛があると否定を避けたくなりますからね。
でずが、関わるコミュニティによっては閉じこもってはいられなくなります。
大学に入って少しずつ山から出るようになりました。
そうして「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は「揺れる自己愛と苛烈な克己心」になりました。
それとは別で恋人との2度の別れや、その他の災難もあり、自分が乖離してきました。
相反する物を両方好きなのは本心なのです。でも、世界はあまりそれを受け入れてくれません。
世界が好きなのに、世界が好きな私を世界が受け入れていないような錯覚があります。
それは錯覚でも真実でもなく、幻想なのでしょう。世界が何かを受け入れるというのは傲慢でメルヘンな考えです。
世界はただここに存在するだけでしょう。
兎にも角にも、私が世界から蚊帳の外であるという意識や、私が生きていてよいのかという感覚が芽生えてきました。
(そんな気持ちでずっといるわけではないし、今でもそれはじゃがいもの芽のようなものにすぎません。)
未来のために (文体・日影)
自己愛で他人に迷惑をかけることはないので、私は
・自分の能力を高めたい
・生きてていいって思いたい
こんなに入り組んだ思想をしてても、結論は全て頑張る。努力するしかない。
筋トレだってするぜ。努力、未来、A BEAUTIFUL STAR。
そして次に生きてていいって思うことだが、これは難しい。
まあ、ずっと罪の意識に囚われているわけでもないのだが。
『呪術廻戦0』の乙骨の感覚にも似ているかもしれない。
人の為に努力することで自分を赦せるかもしれない。
自分での赦しは年月がかかるだろうから、他者による赦しを求めている。
『デッドデッドデーモンズデデデデストラクション』の「絶対」
『呪術廻戦』の「問題児二人、ただし最強。」
世界よりも上位の「あなた」を求めている。
依存するつもりはない。
ただ、この孤独な世界で、「私がいるから大丈夫」と言い合える人が欲しいという話。
それが恩寵。
星野源『さらしもの』「もしかすると孤独は一人ではないって」良すぎる。
おまえの孤独をわけてくれ。私の孤独をわけるから。
ちなみに「恩寵」「原罪」「赦し」などいっていても無宗教だぜ。
そして文体の「日影」「彩絵」についてもまた書かせてくださいね。
今日も始まったばかりなので制作頑張ろうと思います。