夏果

日常の思いと創作など

無常・エンドロール

夏果とは

 

夏果とは、夏の終わりの時期である。

私の追加した意味によると、夏の終わりの思い出に押しつぶされそうなこと。人生や物語の終わり。エンドロールである。

 

私はとても幸せに生きているし、全然生きていたい。

それでももうすぐ死んでしまいそうな感覚にとらわれる。

特に夏の時期はこれまでの人生の思い出が走馬灯のようにフラッシュバックしてやまない。

 

去年の夏はとても辛かった。

去年の夏から自分をすこし蔑ろにしている。

私は観測者を気取っているのだが、去年の夏から完全に自分が観測対象になった。

それによって乖離を感じる。

多重人格などではない。相反する性格を持ち合わせている感覚だ。

 

このブログはアイデンティティを取り戻す軌跡でもある。

 

エンドロールの曲

 

ヨルシカの『パレード』

この曲だけ別格でエンドロールだ。この曲を人と一緒に聞いて厭世観に浸る事ができたらどれだけ救われるだろうか。

 

バルーン『朝を呑む』

kiki vivi liliy『At last』

星野源『くだらないの中に』

Billy Joel『i've loved these days』

いよわ『IMAWANOKIWA』

あたりもエンドロールとして流れる。(敬称略)

 

これらの曲の切なさを痛いほど共感してほしいーー

 

とはいえ孤独

 

このエンドロールの何がよくないか。それは孤独なことである。

 

何度もいうが私はとても死にたくない。

「死にたくないけど、死んじゃうんだなぁ」という感じだ。

20代前半の人間がそんな気持ちになっていることは珍しい。

人生の夏の思い出に押しつぶされる思いをすることもあまりないだろう。

この「夏果」を共感してもらうのは難しい。孤独だ。

 

せめてもの慰めとして私は夏の終わりの寂しさを人と共有することにする。

 

とはいえ正しい

 

このエンドロールの何がよいか。それは正しいことである。

 

人は事故などですぐ死ぬ

私が死ななくとも、幸せは世界にすぐに取り上げられてしまうのではないかと思う。

そして幸せも不幸せも無常だ。移ろいゆくものである。禍福は糾える縄の如し。

たまにエンドロールが流れて不幸に備えている方が安全ではある。

 

ただ、それも寂しい思考だ。

他者と苦楽を共にできるなら、それは苦しみすら善いものではないだろうか。

 

結論と言ってはなんだが

 

結局、私はもう少しだけ楽観した方がよい。

そしてエンドロールを人と一緒に聞くことを諦めない。

そして人間たちはもう少し無常に、世界に「あはれ」を感じるべきだ。

 

ここに来て「あはれ」という古語にたどり着いたが的確な表現だ。

私は源氏物語が好きなので、世界と無常をこんなにも嘆いているのだろう。

そして、伝え忘れたがエンドロールは美しい。

この無常の世界で私は、一瞬の煌めきも捉えて生きていられる。

 

この感覚をあなたと共有できたらどんなに

 

 

 

とりあえず漫画でいいからみんな源氏物語を読め。